アルチュール・ランボー『地獄の季節』を鈴村和成の訳(思潮社・海外詩文庫、1998年)で再読。『地獄の季節』は若い頃、小林秀雄の訳(岩波文庫)で投げ出し、それから何人かの訳でも挫折、今年になって粟津則雄の訳(新潮社・世界詩人全集9、1968年)でやっと読み通せた。今回の鈴村和成の訳はさらに整理されていて、見通しが良くなっている。しかし、この訳の違いはなんだろう。冒頭を較べる。
《 おれの思い出が本当なら、おれの昔の生活は饗宴だった。どんな人の心も開き、酒という酒が流れていた。 》 粟津則雄
《 昔のことをよく思い起こしてみるなら、俺の生活は宴だったな。心という心が開かれ、酒という酒が供される宴だったな。 》 鈴村和成
原文に当たろうという気はさらさらない。
ネットの見聞。
《 アメリカで現金お断りのサンドウィッチ店がオープン。コインも紙幣も受け付けない初めての店舗になる予定だ。 》
さすらい人ランボーはどうするんだろう……。ボロ財布には四千円(ポッチ)と四枚のカード。オレンジカード(JR東海)、メトロカード(営団地下鉄)、クオカードそしてテレフォンカード。骨董モノだなあ。キャッシュカード、見たこともない。
ネットの拾いもの。
《 先日某社の若い女性編集者と電話をしていて「わたし昨日の懇親会に行くつもりだったんですけど、ギリギリになっちゃって結局行けなくて…」の「ギリギリ」を「下痢気味」と聞き取ってしまい、でも互いに気づかず、しばらく会話が続いていた。あのまま切らなくてよかった。 》