宮本常一『日本民衆史7 甘藷の歴史』未來社一九六二年一〇月一〇日第一刷発行を少し読んだ。以下メモ。
《 瀬戸内地方へのイモの伝来はさきにも書いたところであるが、それはアカイモ系のものであった。黄色のカライモ(アメリカイモ)系のものの伝来はそれよりかなりおくれて、正徳元年(一七一一年)のことであった。そしてそのイモを持ってきた人は、伊予(愛媛県)大三島の下見(あさみ)吉十郎であった。 》100頁
《 享保二〇年(一七三五年)の「越智島十七ヶ村万物帳」によると「献上のほかに名物というようなものはありません」といっているが、そのなかにタバコ・木綿・サツマイモの名は出ているのであるから、すでに常食になっていたことがわかる。
この地方の人びとはそれから吉十郎を芋地蔵としてまつり、秋になってイモができるとそのまえにイモをそなえて法要をいとなんだ。 》111頁
《 享保の凶作は各地に大きな被害をあたえた。そしてそれがひとつの契機になって、甘藷が全国にひろがっていくことになる。そのうち山陰地方への甘藷の導入に力をつくした人に井戸正朋がいる。芋代官といわれた人である。石見(島根県)大森銀山の代官であった。この飢餓がなければ代官を平凡につとめあげて江戸へひきあげ、平和な生涯を送った人であろう。平凡で誠実な人であった。しかし、この飢饉にあうて官庫をひらいて米を飢民にほどこし、その責任をおうて切腹して死んだのである。 》113頁
《 一人の善意にみちた愛情に対する追慕がこうして長く村人の間に生きてきたということは、この地方の人びとが、それからのち甘藷によって幾度か飢饉の窮迫をきりぬけてきたためであろう。そしてそのたびに、この為政者の人柄を身うちのもののようなつもりで思いだしたにちがいない。 》127頁
《 これだけならべられると、これほどよい作物はないということになる。そのうえ植え方を説明してあるので、当時としては行きとどいた宣伝ぶりであったということができる。
かくて甘藷は「蕃藷考」とともに各地にひろがっていくことになった。
ただ幕府が提灯をもち、昆陽のような学者が中心人物として登場してくると、関東一帯へのイモの伝播は享保二〇年以降ということになってしまいそうであるが、それ以前にもたえざる伝播がくりかえされていたことを忘れてはならない。 》137頁
午前十時、今日も35.3℃。
午後、木版画の奥野淑子さんから電話。一昨日来訪された女性お二人に奥野さんの木口木版画をお見せしたところ、感嘆され、盛り上がった。その時電話してちょっと話した。きょうは少し長くゆっくり話ができた。作品が素晴らしいのだから、つりたくにこさんのようにいずれ発見される。原版をしっかり保管するように依頼。
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